日本対外文化協会の歴史

 1964年、当時の成田社会党書記長を団長とした日本社会党ミッションが訪ソ、フルシチョフ党第1書記・首相や党幹部会員のミコヤン副首相等と会談した。その際、ソ連側から「日ソ間で広範囲な学術・文化交流を推進するのはどうだろうか。日ソ関係を発展させるためには国民間の相互理解が大切であり、その鍵を握っているのが文化交流である。ソ連には『ソ連対外友好文化交流団体連合』(略称・ソ連対文連)という世界各国と民間交流を行なう、社会団体があるので、日本側が賛成ならばこの団体を紹介したい。日本でも同様な組織をつくりぜひ交流をしたい」という提案が行なわれました。

 訪ソ代表団は帰国後、当時の河上丈太郎委員長に報告すると共に、中央執行委員会でも取り上げられました。委員長も賛成で「このような意義のある社会性の強い仕事は、枠を広げて国民全体が参加出来るようにするのが望ましい。ついては、この組織の代表は松前重義氏にお願いするのが良い」との意向が示されました。この件は訪ソメンバーの一員であった松本七郎教育宣伝局長から松前重義氏に伝えられました。

 戦前のヨーロッパに留学した経験を持つ松前重義氏はかねてからソ連、東欧の社会主義諸国と日本がより深く交流すべきであるとの意見をもち、特に日ソ間の安定した国家関係の樹立こそ、将来の経済的発展にも、また日本の総合的な安全保障にとっても不可欠な課題であると考えていました。ほどなくして河上委員長から正式な話があり、松前重義氏はこれを快諾して「日本対外文化協会」が発足への準備が進められました。

 発足に当たって松前重義氏は河上委員長に対して「この団体は私の創意で作りたい。しかし、応援はしてほしい。交流の対象をソ連に限定せずに、とりあえずソ連・東欧との交流から出発し、将来は対象をより広く世界に広げたい。役員も社会党に限定せず、広く各方面から人材を求めたい」と協力を要請しました。

 河上委員長は松前重義氏の申し入れに全面的に賛同し「応援をする。思い通りやってほしい」と激励し、まず社会党の執行部から担当役員として松本七郎教宣局長、松井政吉総務局長、担当者として2名の書記が派遣されました。

 1965年12月、活動の第1歩として、担当者がソ連と東欧のブルガリアを訪問、協会の設立趣旨と、日本側の交流計画をを携えて、それぞれの交流機関を訪問しました。ソ連では、ソ連対文連のイワノフ第1副会長と会談、ブルガリアでは国際文化交流協会との間でそれぞれ交流についての協議を行い、活動開始に着手しました。

 1966年は、1956年鳩山一郎首相が病苦をおしてモスクワを訪問、ブレジネフ書記長との間で歴史的な「日ソ共同宣言」が調印されてから丁度10年目に当たっていました。ソ連では混乱した政治紛争に終止符が打たれ、トロイカ体制のもとで学術や文化の高揚期にあっただけに、学術・文化の交流を主体とする協会の発足は、時宜を得たものでした。

 日ソ間での民間交流の輪は、すでに日ソ協会をはじめとし、日ソ親善協会、日ソ交流協会、また経済面では日ソ貿易協会が存在し、国交正常化促進に向けてそれぞれの立場で活動を行なっていましたが、イデオロギーにこだわらない新たな日本対外文化協会の発足は多くの関心が寄せられました。当時、国内的には第1次佐藤内閣発足2年目にあたり、経済的には高度成長の真っただ中で、隣国の中国では文化大革命が起こっていました。

 こうした中で1966年1月10日、東京港区のホテルオークラで設立総会が開かれました。会長には松前重義氏が選出され、理事長には松本七郎氏が就任し活動が開始されました。

第5回日ソ円卓会議(東京)

 各種代表団の派遣、交流、協力協定の締結、シンポジウム、美術展、学術会議、などが毎年活発に行なわれ、1973年には「大シベリア展」開催、75年には「トレチャコフ・プーシキン2大美術館展」などが好評の内に開かれました。79年には、第1回「日ソ円卓会議」が東京で開かれ、民間外交として指導的役割を果たしました。この「日ソ円卓会議」は東京とモスクワで交互に行なわれ、1988年の第6回まで続き大きな成果をあげました。その間ソ連は政治的に大きな変化を経て1991年にソ連崩壊、一方同年の8月には松前重義会長が死去するなど、対文協も大きな変革の時を迎えました。1993年5月24日に開かれた対文協第26回総会で、それまで、会長代行であった松前達郎氏が正式に会長に就任しました。

 旧ソ連・CIS諸国、新生ロシアとの交流は、こうした時期であればこそ必要と判断され、対文協はただちに「ロシア科学アカデミー」と新たな「学術交流協定書」に調印し、新しい活動に入りました。ロシアとの文化・学術交流では、語学研修生の派遣事業、また、東欧諸国を含めた旧ソ連CIS諸国からの研究者の招請などを継続、各種の代表団の派遣、美術展などを展開して今日に至っています。